はかりは文明の発祥から今日まで、社会の発展とともに歩んできました。いつの時代にも、商業や各種産業の礎(いしずえ)として欠かせない役割を果たしてきました。その歴史の概要をまとめました。
てこの原理をもちいた「天秤」は、エジプトの古代文書「死者の書」にも描かれ、その起源は紀元前5000 年より前と考えられています。
天秤は物と物の重さを比較する用途から、やがて客観的な基準量「分銅」をもちいて質量をはかることで、商取引や工業、科学の発展といった人間の文明に欠かせない道具となってゆきました。
黄河流域では周(紀元前1046 年頃 - 紀元前256 年)の時代の記事に、はかりが現われています。秦の始皇帝(紀元前259年 - 紀元前210年)は国家単位での貨幣や計量単位の統一を行い、長さ・重さ・容積の標準器を製作して各地に配りました。
初始元年(西暦8年)に成立した「新」王朝がつくった写真のような標準器は
「新嘉量」と呼ばれています。漢時代(紀元前206 年-紀元220 年) のものが、現存する最古の「新嘉量」です。
日本にも大きな文化的影響を及ぼした唐の時代、武徳4年(621 年)に銭貨「開元通宝」がつくられました。
銅の鋳造による開元通宝は、貨幣の基準であると同時に、形、寸法、重量とも正確・均質であったため、重量単位(1銭)としても用いられるようになり、やがて日本に伝来して1匁(もんめ)という、日本の重量単位の基準となりました。
日本で始めて「はかり」という言葉が現れるのは、弘仁6年(815年)に編纂された「新撰姓氏録」の崇峻天皇(587-592 年)に関する記述です。そこには「万物をかけ定め、交易に使う波賀理(はかり)」と記されています。
日本書紀の中に天智天皇元年(668年)「百済の鬼室福信に矢六十万隻、絲五百斥、綿一千斥、布一千端を賜う」とあり、「斥」を「はかり」と読ませています。
やがて唐にならった律令制度が整うと、開元通宝の伝来もあって、匁、貫という今日までつづく度量衡の単位が広まって行きました。
鎌倉時代には各職能人の団体である「座」が生まれ、商品流通の秩序維持を担うようになりま す。
室町時代から戦国時代にかけての商業の発達とともに、はかりは広く用いられるようになり、各大名は度量衡制度の統一を目指しました。そういった中、「秤座」が発生したのは戦国末期と言われています。
江戸幕府をつくると徳川家康は自己の支配権に経済法則を及ぼして、経済的支配を貫徹しようとしました。
家康は甲斐の秤細工人であった守随家を武田氏の滅亡とともに召し抱え、甲州五国、やがて東三十三国の秤座を掌握する命を与えました。西三十五国では、同様の権益が「神」家にあたえられました。
真田弾正幸隆を祖先に持つ初代川瀬(河瀬)光通は、承応二年(1653 年)に秤屋を創業しました。
その孫河瀬源右衛門が駿府(現在の静岡市)の七間町に秤座を開き、駿府秤所の初代名代になりました。河瀬家は今日まで続く日本最古の秤屋と言われています。
七間町の名は、七座の長の代官屋敷があったためとも、また通りの巾が七間(約13メートル )あったためとも言われ、江戸時代は物流の拠点として、やがて映画、文化、ファッション、娯楽の町として発展し現在にいたっています。
江戸時代の衡制は分銅の供給体制と併せて確立し、世界にも類を見ない長い統一を果たしました。
秤座は秤の製作・販売・修理をする権限、また不正・不良・偽の秤を没収して摘発する権限を持ち、全国に出向いて秤の検定「秤改め」を実施して衡制の維持にあたりました。
同じ頃ヨーロッパでは、フランスの数学者ロベルヴァルが「平行運動機構」を発見し、それまでなかった、重さを支持機構の上部ではかる「上皿天秤」が誕生しました。
この機構を応用して
産業革命と航海術の発展によって世界規模で商取引が行われるようになると、地域によって異なる計量単位が大きな問題となってきました。
こうして18世紀末のフランスで地球の円周の四万分の1の長さを1メートル、水の1立方デシメートルの重さをキログラムと定めた、「メートル法」が制定されました。
そして 1875年には、メートル法を導入するために各国が協力して努力するという主旨の「メートル条約」が西欧17国間で締結されました。
日本では幕末になると、幕府や各藩が西洋の技術を導入し始め、洋式の秤も日本に持ち込まれるようになりました。ペリーが来航のおり、幕府に寄贈した天秤も現存しています。
明治維新後、西洋秤を模製してキログラム単位のかわりに貫・匁(かん・匁)目盛りをつけた秤がつくられはじめました。
20年ほどで、ほとんどの洋式はかりは外国製品に劣らぬ精度で国内で生産するようになり、他の産業と同様に工業化の道を歩みました。
明治8年(1875 年)に近代日本最初の度量衡法規として、「度量衡取締条例」が交付され、明治19年(1885年)に日本もメートル条約に加盟します。
明治26年(1893 年)には「度量衡法」が定められ、尺貫制度とメートル法の両方が基準単位なります。このダブル・スタンダードは第二次世界大戦後まで続きました。
大正10 年(1921)4 月には、後のJIS規格へつながる「工業品規格統一調査会」が発足し、度量衡では台秤と上皿桿秤の「規格衡器」がつくられるようになります。
昭和に入り、やがて戦後の産業の発展とともに、商用に限らず様々な分野で使われるはかりがつくられて行きました。
工業用の大型のはかりつくられる一方で、実験用などで微細な重量を扱うはかりも高精度化して行きます。また、体重計、クッキングスケールなど家庭用のはかりも世の中に浸透して行きます。
1938年に、物体のひずみを電気抵抗値に変えて測定するセンサ「ストレイン・ゲージ」が発明されました。この機構ははかりへと応用され、1954年にロードセル(荷重変換器)が実用化されます。
このロードセルや電磁力補償式、音叉振動式、などの技術をもちいた電子はかりが、20世紀後半に誕生し、機械式はかりは電子はかりにその場所を譲ってゆきました。
しかし機械式はかりは単純な機構ゆえの耐久性・長期に渡る信頼性をもち、現在でもその多くが使われています。
今日ではナノレベルの実験などで用いられる計量性能0.1µg (マイクログラム=0.000001g)のものからクレーン用の1000t(1000,000,000g)クラスの秤があり、様々な分野でその技術が応用されています。
2000年にハワイにつくられた国立天文台すばる望遠鏡には、荷重により音叉の周波数が変化する原理をもちいた、261個の音叉式センサが使われ、口径8.3mのレンズの歪みを超高精度で抑制しています。
参考資料
「秤(はかり)」 小泉袈裟勝著 法政大学出版局
「秤座」 林英夫著 吉川弘文館
「守随家秤座文書」 林英夫・浅見恵編 新生社
各はかりメーカーホームページ
東洋計量史資料館ホームページ
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